うなぎの世界

天然ウナギから養殖ウナギ時代へ 深川で養鰻をはじめる

天然ウナギから養殖ウナギ時代へ
深川で養鰻をはじめる

 現在、蒲焼などで食べている鰻は、そのほとんどが養殖鰻である。

 『中市』創業のころの江戸時代は、江戸前鰻と、食通に喜ばれ、深川、神田川、隅田川などでも、天然鰻が獲れ、食べていた時代もあったのである。

 天然鰻の水揚げは、年々、減少の一途をたどっており、ここ数年2000トン前後である。これに対して、養殖鰻の生産は逆に年々増加して国内の95%強を占めるに至った。

 日本の鰻の生産量は、あとで表示するが、江戸時代、明治、大正期は天然鰻が多く、だいたい昭和3年ごろを境にして、養殖ものと天然ものが逆の立場(第2次大戦後の混乱期を除く)になった。

 鰻の養殖は、明治12年(1879)に服部倉次郎が、東京・深川の千田新田の養魚池ではじめたのが最初であるとされている。その後、明治24年には原田仙右衛門が、静岡県浜名郡新居町で鰻と鯉を養殖した。これが、浜名湖付近の開祖とされている。明治29年には、寺田彦太郎が三重県桑名地方に、奥村八三郎は愛知県神野新田で養殖をはじめた。

 前述の服部倉次郎が、明治25年に静岡県舞阪に80000㎡の池を造り、本格的な養鰻をはじめたが、この養殖に着手した年については諸説があり、27 年、30年、32年の説にわかれている。つまり明治30年代に入って、養鰻業が企業として、確立するようになってきたわけである。

 たまたま、大正8年(1919)に開墾助成法、大正10年には公有水面埋立法が制定され、これらの法律が、養殖池を作るのに有利な面が多かったため、地方の有力者がどんどんと養鰻業に投資、進出した。

 創業時代の中心地は、飴料(サナギ等)の入手の容易な製糸工場が多くある地方でもあったため、これらの資本力とも結合があった。

 焼津川尻地区、浜名湖地方、豊橋、渥美地方、三重県伊勢湾西岸などが主なもので、広大な養鰻池が次々と作られるようになったのである。

 これら静岡県を中心に、愛知、三重の3県が現在でも養鰻業の中核であり、ある時期では全国90%以上も占める生産量であった。養鰻の一大生産地は、この時期に、すでに形成されていたわけである。

 一方、天然鰻のほうは、第2次大戦後から、昭和44年ころまで、3000トンほどの漁獲量があった。しかし、その後、全国的に河川の汚濁などもあって、 45~47年までは2500トンあった量も、その後は減り続け、昭和57年では1927トンとなった。この数量は、最近の平均値である。

 現在でも、細々と天然漁は川漁師によって続けられており、全国の主な生産地では、石倉漁、鰻竹筒、鰻棒などの昔ながらの伝統漁法で獲られている。

 この漁法によることが、漁獲量の伸びない一因とも考えられる。

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かつては露地池での生産が主流だったが……
(静岡・浜名湖地区)

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露地池養殖場

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ハウス養殖場

国内生産量
(トン)
天然物
(トン)
養殖物
(トン)
S41 19,841 2,826 17,015
42 22,767 3,162 19,605
43 26,764 3,124 23,640
44 26,470 3,194 23,276
45 19,456 2,726 16,730
46 16,857 2,624 14,233
47 15,773 2,418 13,355
48 17,354 2,107 15,247
49 19,160 2,083 17,077
50 22,951 2,202 20,749
51 28,291 2,040 26,251
52 29,732 2,102 27,630
53 34,174 2,068 32,106
54 38,704 1,923 36,781
55 38,554 1,936 36,618
56 35,902 1,920 33,982
57 38,569 1,927 36,642
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ハウス内養殖池

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シラス用蓄養池


日本における鰻の生産の年変化

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