うなぎの世界

鰻は川柳、落語と深い関わり

鰻にまつわる川柳

 川柳は江戸時代に、はじまった日本特有の短詩文芸であり、広く人々のあいだで、おこなわれてきたものである。

 同じ短詩の和歌や俳句が、優雅な趣を表現しているのに対して、川柳は庶民的で、人情風俗を、生き生きと描き出すことに徹したわけである。

 鰻だけについてみても、当時の世相、風俗、鰻の生態と人々の生活の関係などが、つぶさにつかむことができるのである。

古川柳 現代川柳
鰻を丸で貰ったも困る物
(やない筥)
素人にや横裂けのする鰻なり
(柳多留)
釣て来た鰻是非なく汁で煮る
(川傍柳)
割く事はおいて鰻とつかみ合う
(宝柳)
土用丑のろのろされぬ蒲焼屋
(柳多留)
ぬらっかする間にちよいと錐を刺し
(柳多留)
悪い思ひ付き生た鰻を呉れ
(やない筥)
丑の日に籠でのり込む旅うなぎ
(柳多留)
串という字を蒲焼と無筆よみ
(柳多留)
うなぎやの隣茶漬の鼻で喰ひ
(柳多留)
江戸前の風は団扇で叩き出し
(不明)
錐よ金槌よと素人の鰻
(柳多留)
口程にうなぎのさけぬ料理人
(柳多留)
焼の団扇儲かる音を立て
(扇啄坊)
うなぎ屋の手つきに鰻あきらめる
(水笑)
丼へ子供顔中入れて食い
(夜舟)
鰻屋の串だんだらに焦げている
(木念仁)
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落語に出てくる鰻

 鰻を材料にした落語は数が多く、現代でも好評を博している。

 なかでも「素人鰻」「鰻の野幇間(のたいこ)」「後生うなぎ」は有名である。もともと、落語は創作したものが多いのだが、江戸時代に、小咄(こばなし)が大変発達し、数百種の本が刊行されていて、その小咄を土台にして作られたものも多い。「素人鰻」の原本は安永6年版の小咄「我旅」である。

素人鰻

 小咄をもとにして、明治初期のころ、路頭に迷っていた武士階段をからませて作った噺(はなし)である。

 当時は、四民平等となったので、江戸時代に侍が町人どもを虫けら同然に扱い、えばっていた反動で、ずいぶんと士族を馬鹿にして、からかった噺の中のひとつである。

 この噺のなかで客が「エエ……鰻をみてえと思います」というのは、当時、通(つう)の客は、店の生簀(いけす)の鰻をみて「あの沼下り(手賀沼産)を焼いてくれ」とか「その地下り(越ヶ谷付近の産)を頼む」というように鰻を指定して焼かせた。

 これは、鰻が産地と季節によって、味がとても異なることだからである。

 サゲは「門抜け落(おち)」で――鰻屋が土用の丑の日を当てこんで鰻をたくさん仕入れて帰ってきた。店についたとたんに、大きい鰻が一匹、籠を食いやぶって逃げる。

 鰻屋はそれをつかむとぬるりと鰻は指から逃げる。逃げるところをおさえると、またぬるり。鰻屋は鰻を追って、だんだん店から出ていく。女房そのようすを見て、

 「お前さん、どこへ行くんだい」
 「おれにはわからねえ、鰻に聞いてくれ」

鰻の野幇間

 これは「幇間噺(ほうかんばなし)」の傑作のひとつで、実話をもとに、故桂文楽が作ったとされるもので、文楽の一八番(おはこ)である。

 たいこ持ちの一八(イッパチ)が、当てにして訪ねた芸者屋の女将(おかみ)が留守で、祝儀を貰いそこない、名前も知らぬ男に食い下がって、とうとう鰻をごちそうになる。

 鰻屋の2階で、一八はさんざん男にお世辞をいっていたが、そのうち男は便所に行くといって、部屋を出たきり戻ってこない。

 女中を呼んで聞くと、勘定も払わずに先に帰ったという。しかも、ご丁寧に土産代まで払わされ、ぶつぶついいながら帰ろうとすると、汚ないゲタがそろえてある。

 「おいっ!こんな小汚ねえゲタはくかい。けさ買ったばかりの5円のゲタだ」
 「あっはっは、あれはお連さんがはいてまいりました」

後生うなぎ

 浅草の鰻屋の前を通り合わせた大家のご隠居が観音様へお詣りの帰り、ふと鰻屋の店をのぞくと、亭主が鰻を裂こうとしている。「殺生はいけない、そこの鰻をぜんぶ買ってやる。ああ、いいところで鰻の命を助けてやった」と、その鰻を吾妻橋の大川に放してやった。

 こんなことが2、3度と続き、鰻屋は隠居が通る頃を見はからっては、鰻を裂くふりをして、その鰻を買い取ってもらった。

 ある日、鰻がないのに隠居が通る。儲けられない鰻屋は、仕方がないので、自分の家の赤ん坊をマナ板の上にのせ、包丁をふりかざすマネをすると、隠居はそれを見て「殺生はいけない、私が買いとってやる」と、その赤ん坊を鰻同様に、川にドブンと投げこんでしまった。

 この他にも落語には、鰻屋を舞台にした噺が多い。名人◎◎文楽師匠ほどの語り口は望むまでもないが、これらの噺が寄席であまり聞けなくなったのはさびしい。

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民話に登場する鰻

 全国各地に残っている民話にも、鰻を題材にしたものが多い。

鰻とクモの喧嘩(仙台地方)

 ある堰戸に、ずっと昔から住みついていた大きなクモがいて、これが、少し下流にある堰戸の主である鰻とひどく仲が悪かった。ある日、クモは鰻の堰戸も、自分のすみ家にするため、喧嘩をすることにした。

 これを知った鰻は、相手が畳8枚敷いたぐらいの大きなクモだから勝ち目がないと思い、あわてて人間の姿に化けて、近くの百姓である源兵衛さんに助けを求めた。

 「今晩でケリがつきます。どうぞ、大きな声を出してクモを驚かせて、私を助けてください。そのかわり、もし私が勝ったら、あなたのたんぼには、いつも水をいっぱい流してあげましょう」

 根が臆病な源兵衛さんも、たんぼに水が欲しいので、声の助太刀を約束した。

 だが、その夜、源兵衛さんは、おじけづいて足腰がふるえてとまらない。そこで、頭からふとんをかぶって寝てしまった。

 次の朝、源兵衛さんは、下流の堰戸で、大きな鰻が死んでいるのを見た。

 「わしのせいだ」……すっかり青くなり、怖くなって家に逃げ帰った源兵衛さんは、ふるえがとまらず、そのまま死んでしまったとか。

 このほかにも、人間の和尚に姿を変えた鰻(池の主)が水を引く話しや、大きな鰻が、人畜に危害を加えた民話など、池や沼の主である鰻と村人の話しがあり、水不足に困った村人が、美しい娘を差し出すかわりに水を引いてもらうなど、水に関係した話しが多いのは、鰻を水の神(池の主)としていたからであろう。

 外国の民話でも、つかまえた大鰻を放してくれれば、大漁を約束する鰻の話しや、人間に化けた鰻が、人間を助けたり、襲ったりする話しが多い。いずれも古くから鰻が人間とかかわっていた証拠でもある。

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